先日、天飛華音くん初主演の「My Last Joke」を観劇してきました。
そして、配信も見ました!
1幕の始まりからかなり泣き、最終的には大号泣した私ですが、深すぎて、どこから書いていこう…という状況です… 物語の解釈も人によって様々になる、深く、暗い物語でした。
ミュージカルというよりも、とんでもないストレートプレイを見せつけられたような感じ、舞台の使い方がドタイプでした。
今回は、物語についての考察と私なりの解釈をメインに、書いていきたいと思います。
キャストについての感想は次に書こうと思います!
2回観劇しただけでは、腑に落ちていないところ、解釈しきれていないところ、うる覚えなところもありますが、拙い文章で自分なりの解釈について書きます。
基本的にセリフのところはニュアンスです!完璧に覚えられる頭とメモリが欲しい笑
⚠︎読みやすくするために敬称略を用いている所があります。すみません!
⚠︎ネタバレ大有りです!!苦手な方はご注意ください!!
⚠︎私の感想と意見です!! 違うように感じた方もいると思います!!ご了承ください
竹田悠一郎先生が描く「エドガー・アラン・ポー」の人生
孤独と恐怖を抱えつつ暗闇の中で、その暗闇の中で見たものを忘れないように、必死に詩を描きながら、綱渡りのように生きているエドガー・アラン・ポー(天飛)が、ヴァージニア(詩)という一筋の光に出会い、生きて、そして死んでいく物語。
竹田先生は、私たちに何を伝えたかったのか。彼の最後のジョークはなんだったのか。本当に考えさせられる舞台でした。
スカイステージの稽古場レポートの中で、かのん君(天飛)も言っていましたが、エドガーは、史実を読むと、ひどい人だという印象を抱きます。
ですが今作、「My last joke」を観劇した後にエドガーについて思うことは、暗闇の中、不安や恐怖、孤独と絶望を抱えながらも、自分が生きていく ”人生” を力強く生きようと、生き抜こうとする姿が辛く、悲しいということ。ただ必死に、愛し愛されることを望んでいた。
誰しもが、自分だけの人生をより良く生きようとしている。彼もその一人で、ただ普通の人間だったんだなと。
誰かを愛したい。愛されたい。認められたい。そんな、人間が生きていく中で持つ、ごく普通の欲望。けれど、彼を愛してくれた人、彼が大好きな人、彼を認めてくれた人は、みんな彼の元からいなくなってしまう。
欲望が満たされず、大きな孤独を抱きつつ、さらに死という大きな恐怖感に苛まれ、一人暗闇の中で、自分だけの思い出を文章にするようになっていったんだろうなと。
竹田先生が描くエドガー・アラン・ポーの人生は、共感できる部分が大きく、彼の生き様が心に響き、重いけれど、自分の人生についても考えさせられるものでした。
人はいつか死ぬから、その時に笑顔でいられるように、私の、あなたの人生を、私らしく、あなたらしく、選択して生きていって欲しい。そんなメッセージもあったのかもしれません。
自分の信じた道を進んでみること。たとえそれが苦しい道を歩むことになっても。胸を張り、自分が選び取った道だと、強く踏み締めて生きていく。
私には、こんなメッセージが、竹田先生が描き、かのん君演じるエドガーから伝わってきました。
物語の終着点。 闇の中に光が差し、また闇に覆われ、最後は光に向かって歩いていく。
物語の結末は、「死」です。結核にかかったヴァージニア(詩ちづる)の元に彼女が死ぬ恐怖から、そばにいけなかったエドガー(天飛)が、最後に駆けつけ、エドガーの腕の中でヴァージニアは死んでいく。
そして、愛し、愛してくれた ”たった一筋の光” だったヴァージニアが亡くなり、エドガーは失踪。最後は死を選びました。
死因は史実でも解明されておらず、物語の中でも、直接的な表現はありません。
完璧に私の考察と解釈ですが、自身の使っていたペンで喉を刺し、最後は死に後悔せず、ヴァージアの元にいったのではないかなと、勝手に思っています。(これは考察というか妄想)
闇だったエドガーの人生に、ヴァージニアという光が差し、ヴァージニアの死によりまた闇に覆われる。自ら死を選び、あの世で待つ光に向かい自分の足で歩いていく そんな物語。
私の中で解釈できていないのは、①何が、彼の最後のジョークだったかということと②アナベルリーの詩を最後に書き残した理由 です。
最後、エドガーが亡くなった後、彼のの最後の作品「アナベルリー」を登場人物皆で読み繋ぎ、エドガーとヴァーシニアの最後の虚構のシーンにつながります。
登場人物たちで「アナベルリー」を読み繋いだのはなぜか、彼はなぜ最後にあの作品を残したしたのか。私は結局わかりませんでした。ネットでアナベルリーの翻訳を読んでも掴めなかった。
物語の1幕序盤、稀惺かずと君演じるナサニエルの前説の中に、「エドガー・アラン・ポーは何を書き残そうとしたのか」と私たち観客に問いかけます。
彼は、何を残したかったのか。
いろいろなことを考える中で、私は、一つの自分なりの解釈に辿り着きました。
ここからは、私なりの「My last joke」に対する解釈になります。
「My Last Joke」私なりの解釈 彼は本当に作品を書けなくなった
私の解釈の中では、エドガーは、最終的に作品を書けなくなったのだと思っています。
物語の終盤に、大鴉から人気になったエドガーを讃え、沸いている群衆に向かって、碧海さりお君演じるグリスフォルドが
「彼の作品をちゃんと見てみたら、過去の作品から引っ張ってきてばかり、陳腐だ」
と伝え、大衆はその声により、エドガーに興味をなくします。
ここで生まれる疑問は、本当に彼は、過去作を引用し、書けなくなったのか。 それとも、エドガーの印象(大衆の見方)をグリスフォルドが変え、本当は書けていたのに、大衆から見放されてしまったのか。
作品を批判し、群衆に陳腐だと伝え、興味を薄れさせるというのは、物語の1幕後半で、エドガー(天飛)たちが、大希颯君演じるロングフェローの人気を落とすために行っていました。
ですが、この時は、大衆に対し、「ロングフェロー(大希)の最近の作品は、他の人の作品を真似し、移し替えている」と主張し、大衆は、そこまで納得していないようでした。言われてみれば…くらいの感じ…。まあ確かに?見たことあるわ…と。 これに対してロングフェローは知らなかっただけだ!と主張。
一方、終盤のエドガーへの興味がなくなるシーンでは、「お酒に溺れ、自分の過去作品から盗んでいる」とグリスフォルド(碧海)が言います。そしてその後、大衆は、「○○の表現と似ている」「この詩は前に見たことがある」「先週に発表された〇〇にそっくりだ」…と言っています。
この群衆の具体的な反応で、私は、エドガーが本当に書けなくなってしまったのではないか。と解釈しました。 やけに具体的なんです。
でも、それを大衆に気づかせ、彼をオワリに追い込んだのは、エドガーと同じく作家を目指し、売れずに編集者になり、エドガーに嫉妬していた、グリスフォルド(碧海)なんですよね… エドガーのように夢を抱き、叶えられずに終わった彼が、エドガーの作家人生を終わりに追い込んだ。
そしてグリスフォルドは、群衆に、「彼エドガーは何を伝えようとしたのか。彼が詩を書く目的とはなんだったのか」と投げかけます。結局エドガーに興味の無い群衆は、考えようともしませんでした。
詩を書く目的。なぜ書いて、何を大衆に伝えたかったのか
そして、なぜ書けなくなったのか。
これに関する解釈は次。
エドガーが書けなくなったのは何故か。ヴァージニアの死と気づき
まず、思い出されるのは、物語序盤で、エドガーが文章を紡いでいた理由。
ヴァージニアと出会う前、彼は自分を認め、自分を愛してくれた実母と義母を結核で亡くしました。そして、孤独と死への恐怖を抱え、たった一人、暗い世界で、自分が見た・感じた思い出、悲しいことも、辛いことも悔しいことも、嬉しいことも、全てを忘れてしまわないように、気持ちを文章にしていました。
一人の思い出は忘れてしまうから、忘れないように。
しかし、ヴァージニアと出会い、彼の人生に一筋の光が差し込みます。彼女は「二人なら思い出を忘れないでしょ」と言い、「わたたちの詩を書いて」と言います。
彼女はきっとエドガーにとって太陽のように眩しい光だったと思います。
そして彼女は、エドガーを愛し、エドガーの詩を愛し、誰よりも、エドガーの詩を待ち望んでいました。
しかし、ヴァージニアは結核に罹患し、吐血してしまう。
エドガーは、またも、自分を愛し、認めてくれた人がまたも自分の元から消え、死んでしまうという恐怖から、彼女に会いにいけなくなってしまう。 それなのに、彼女の死を思うと詩が書けてしまう と嘆きます。
これに対し、グリスフォルド(碧海)は「彼女はお前の創作の肥やしにされている」と言い、怒るエドガー
そして、「僕は書く。書き続けなければならない!!」と強く主張します。
しかし結局書けなかった。
それはなぜか。 きっと、彼にとって、詩を書く理由が、ヴァージニアと出会い変わったから。
私は、エドガーは、待っていてくれる人がいたから、詩が書けていた と解釈しました。
はじめは、誰も僕を認めてくれない。誰も僕を愛してくれない。一人で暗闇の中、生きた証を、思い出を残すために、忘れないように、机に向かっていたエドガー。
でも、ヴァージニアと出会い、強く愛され、認められ、誰よりも、自分の詩を待ってくれる人ができ、そんなヴァージニアのために書くようになった。
彼女がいたから、彼は、詩が書けていた。 彼女のために詩を書いていた。
そのことに、ヴァージニアが死んで気づいたのではないだろうか。
「彼女と紡ぐ言葉を書きたい」これが最終的な本心
「彼女と紡ぐ言葉を書きたい」
これは、ヴァージニアが亡くなり、エドガーが一人で客席から登場し舞台に上がり、最後にヴァージニアの死を嘆くシーンでの一言。
私の胸の奥にズシッと重くのしかかった言葉。 彼女と一緒に、彼女と生きる中で、彼女と交わした言葉から詩を書いていたんだなと。
そして、ヴァージニアが亡くなり、文章を紡げなくなった。彼女がいないから。 言葉を交わせず、彼女と言葉を紡げなくなった。
これが最後に書けなくなった理由。
彼が詩を書く目的は彼女のために移り変わっていったのでは無いか。 読者に伝えたいことは物語の中で、ヴァージニアと出会い、共に生きていく中で変化していったのではないだろうか。
ヴァージニアは死ぬ前に、「私は生きたわ。あなたの詩の中に」と言います。そして、「書いて、書きづづけて。そうしたら、夢でまた会える」と続けます。
きっと、詩に書いた二人の思い出は、「夢の世界」つまり、死後、また出逢えた時に、思い出されるのだろうな。と….
そして、最後に、ヴァージニアの死を題材に、思いを「アナベルリー」を書き、失踪し、死を選ぶ。
彼は死ぬまで最後まで書いた。それが彼女との約束だったから….
エドガーが残した「アナベルリー」何を伝えたいのか
ここまで自分なりの解釈を噛み砕き整理したところで、もう一度、「アナベルリー」を読んでみた。作品の中と翻訳が違うところもあると思うけど、、、
この詩の中で、アナベルリーはヴァージニア 天井の悪魔、天国の天使は、エドガーとヴァージニアの関係を否定する人、エドガーの生き様、詩、言葉を否定する人。
そして、ヴァージニアの死をアナベルリーの死と重ね、言葉を交わせない辛さを詩に残したのでは無いか。死んでもなお愛していて、夢の中で見るヴァージニアのそばにずっといるよ。と。
ヴァージニアの死とその気持ちをアナベルリーに書き残し、それが彼女と交わした「書き続ける」約束を果たし、天上の彼女に会いに行ったのではないかな。
アナベルリーを朗読した後、エドガーとヴァージニアが舞台の中心で 「僕はあなたのそばにいる、あなたの声が聞こえるところに」というセリフを言います。
これは、アナベルリーを書き終わった時のエドガーの気持ち。ヴァージニアに会いに、ヴァージニアの声が聞こえ、言葉を紡げる場所、つまり死の世界に行くということを表していうのではないでしょうか。
アナベルリーは解釈しきれていないところも多くあります。
でも、きっと、彼女のことが大好きで、死んでもなお愛していて。彼女の言葉を聞きたい。彼女と紡ぐ言葉を詩にしたいという強い思いが、最後に彼女に会いにいく、つまり、死へ向かって歩き出す一歩目になったのではないかと。
そして、その時のエドガー自身の気持ちと、彼女との最後の思い出を、比喩的に書き残したのでは無いかなと解釈しました。
「My Last Joke」彼の最後のジョークはなんだったのか
1番解釈できていないのはタイトル「My last joke」の何が最後のジョークだったのかということ。私はこれについて考えすぎていたのかもしれないと反省しました。
そもそも、副題が、「虚構に生きる」なんですよね。だから、現実的に何か答えがある!と決めつけて考えていたのが間違えだったのかもしれない。と思いました。
もう一つ、ジョーク=嘘 と捉えていたことも多分間違いなんだろうな。
ジョークは、周囲を笑わせるシャレだそう。
この物語が盛大なシャレだったのかな(我ながら何言ってるんだ??)
これに関して実は全く、解釈できていません。このモヤっとを解消したい….
何かこれでは?と解釈してる方がいれば是非教えてください….
最後に、まだまだ考えたいことはあるけれど…
ここまで、長々と、My last jokeに関する私なりの解釈を書いてきました。
本当は、大鴉の存在や、never more 、 二人で交わした約束、などなど。。。まだ考えたいポイントはありますが、記憶がどんどん消えていってしまっているので、今回はここまでにしておきます。
放送やDVDが出ることがあれば、鑑賞してもっともっと考えたいと思います…
エドガーと違い、全く文才のないわかりづらい文章をここまで読んでくださった方がもしいらっしゃったら、本当にありがとうございます。涙
私はこんな解釈だった!などあればどしどし、Twitterでも、インスタでも、コメントでも、教えてください!!
読んでくださってありがとうございます!!!!
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